未踏の青

井の中の蛙、大海を夢見て

「転職の思考法」×「天才を殺す凡人」(比較読書)

お題「比較読書」

問題意識

 前回の比較読書によって、「転職力」の第一は自分の資質を理解することだと学んだ。

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 では、自分の資質とは何だろうか。当然生じる疑問である。

 その前に、「資質」「持ち味」「個性」「パーソナリティ」「才能」といった言葉で語られるものは何かを確認したい。「いつ転」では、「資質」を「動機・性格・価値観」と定義しているが、まだ漠然としている。そこで「思考法」から発展して、北野唯我氏の「天才を殺す凡人」と比較しながら考察する。

比較対象

 今回の比較対象は以下の2冊

比較の概要

 「思考法」→「天殺」と呼んだとき、個人の資質に対する熱量に違いを感じた。

 その熱量の差に矛盾はないと仮定した場合、「思考法」を補完するものとして「天殺」があると考えられる。そうした読み方を通じて、「才能」とは何かを確認したい。

  • 個人の資質についての温度差
  • 「天殺」によって補完された「思考法」
  • それぞれの人の中の「天才」
個人の資質についての温度差

 「思考法」は、私が読む限りではポジショニング重視の転職力を説いているため、資質を活かすこと自体についての記述はあまりない。たとえば、自分のやりたいことは何だろうかという文脈では、次のように述べられる。

  • どうしても譲れないくらい『好きなこと』など、ほとんどの人間にはない
  • 心から楽しめることなんて必要ないと言っているんだ。 むしろ必要なのは、心から楽しめる『状態』なんだ
  • 迷ったときに、自分を嫌いにならない選択肢を選ぶこと
  • 『ある程度やりたいこと』は必ず見つかる
  • 替えのきく存在から脱出したければ、自分の好きなこと、苦にならないことを「ラベル」にせよ。

 他方で「天殺」では、どうすれば「才能」を活かせるかということに主眼が置かれる。すなわち、「才能」を「創造性=天才」、「再現性=秀才」、「共感性=凡人」の大きく三つに分類した上で、それぞれに合う武器を手に入れ、活躍できる「職種×フェーズ」において活用すること、また個々人の中にも「創造性=天才」が存在し得ることが説かれている。

 「天殺」のあとがき冒頭には、「なぜ、この本を書いたのか?」という問いに対する答えとして、こうある。

「 人の可能性を阻害するものに、憤りを感じるから」

 両書は人の資質について、中々の温度差を感じる。

 仮に、著者に意識の変化や矛盾がないと仮定した場合、次のような読み方が考えられる。「思考法」が企業選びの思考法=ポジショニングを主題に据えているため、あえて個人の才能という視点にはあまり触れていないだけであって、「天殺」はこれを補完するものと読む方法である。

「天殺」によって補完された「思考法」

 そうした読み方をするとした場合、「思考法」のうち、「天殺」のエッセンスを差し挟むことが出来そうなのは、やはり「思考法」第4章、仕事における「楽しみ」についての文脈だ。

 「思考法」によれば、99%の人間は「being型」である。すなわち、心から「やりたい事」ではなく、心から楽しめる「状態」を重視している(そして、そのことに気づいていない場合が多い)。「being型」の人間が仕事を楽しもうとする場合、以下2点の「状態」を整える必要がある。

  1. 「自分の状態」:「マーケットバリュー」を高め、仕事でつく嘘を最小化する(自分を好きでいる)。
  2. 「環境の状態」:緊張と緩和のバランスをとる。

 緊張と緩和のバランスとは、自分の「マーケットバリュー」と、仕事で要求される「マーケットバリュー」との差が、程よいことだ。そして「思考法」における「マーケットバリュー」とは、「業界の生産性」×「技術資産」×「人的資産」である。後者2つの「資産」は「才能」の結果として得られるかもしれないが、「マーケットバリュー」は「才能」とは直接は関係しないように思える。

 「自分の状態」を整えることのうち、「仕事でつく嘘を最小化する」とは自分の好き嫌いと仕事とのマッチングの問題である。

 そして、「思考法」では、ある程度好きなことを見つける方法として、次の2つの方法が紹介されている。

  1. 他の人から上手だと言われるが、自分ではピンとこないもの
  2. 普段の仕事で全くストレスを感じないこと

 他方、「天殺」でも、自分の才能と仕事とのマッチングについて述べられている部分がある。すなわち、仕事とは職種×フェーズ(作って、整えて、販売する(広げる))の二要素で整理できるところ、「仕事が楽しくない」でも「やりたいこともわからない」という人は、自分の「才能」とこのフェーズとのズレを認知していないことが多いという部分だ。

 「思考法」における「仕事でつく嘘を最小化する」ことと、「天殺」における「才能」と「仕事」のズレをなくすことは、同じなのではないだろうか。 そうだとすると、「ある程度好きなこと」とは、自分の「才能」に合っている仕事ということになる。そうしてみると、「他の人から上手だと言われるが、自分ではピンとこないもの」も、「普段の仕事で全くストレスを感じないこと」も、本人も知らない「才能」に気づくヒントとして理解できる。

 凡人として「共感性」を発揮できる仕事に就くこと。秀才として「再現性」を発揮できる仕事に就くこと。そうすれば、その仕事を「ある程度好きなこと」として見出せるだろう。または、この好き嫌いこそ「才能」の正体なのかもしれない。

それぞれの人の中の「天才」

 「天殺」による「才能」の三分類の秀逸なところは、ひとりひとりの個人の中にも「創造性」「再現性」「共感性」の三種の素養があると指摘したことだ。何かアイデアを思いつきつつも、結局言い出せなかった経験のある人は多いのではないだろうか。すなわち、誰の中にも「天才=創造性」がある。そして、「秀才=再現性」と「凡人=共感性」によって、自身の「天才=創造性」を殺してしまっている。

 「思考法」にいうbeing型の人間でも、自分自身が殺してしまっている「天才=創造性」を解放することで、「心からやりたいこと」=「自分に合った武器」を見つけられるのではないだろうか。

 自分が何が好きかを自覚し、「自分に合った武器」に夢中になり、それが自分の「ラベル」として強固なものが出来上がった時、その人は「天才」と呼ぶにふさわしいだろう。

まとめ

 結論としては、「才能」は好き嫌いである。好きなことの中に才能が隠れている。自分が何を好きでいるかを内省する際、「創造性」「再現性」「共感性」の三分類は、整理・分析の手助けとなりそうだ。

 内省の果てに「創造性」を見つけ、「再現性」と「共感性」によるストッパーを外すことができれば、自分の「資質」を真に理解したということになるだろう。

付録